・結論
「ポケモン世界におけるポケモンバトルの立ち位置は、我々の世界における学習教育的存在である。少年少女の健全な成長を促進し、かつその経験が将来の活動に活き、ひいては人間社会の発展につながるため、公的機関からも惜しみなく援助がある。そのような健全なポケモンバトルは、広く皆に受け入れられている。」
「また、「ポケモンバトル」という要素を「学校」という限られた範囲で学ぶことに物理的限界があるため、トレーナーは旅という形式で修練を積む。」
以下、ここに至るまでのアレコレ。真面目気に考察しているだけであまり面白くはないです。長いので暇すぎて死にそうなかたはどうぞ。
・はじめに
「はぁ~!僕も10才になったら旅に出てぇ~!」
健全な少年であれば、一度は夢見る未知の世界への冒険。沢山の仲間と共に協力して困難を乗り越える大冒険。みなさんもそういう妄想したこと、ありますよね。
...あ、ないですか? そうですか。
・おわりに
純粋に跳ね回ったあの頃の少年の心を、未来に伸ばす手の数が、二本じゃまるで足りなかったあの頃の目の輝きを、忘れてはいけませんよ...
人はこうやって枯れていくんですね...
・というわけで
導入茶番。
前述のように、 この世界のみなさんは「はぁ~!僕も10才になったら旅に出てぇ~!」とはなかなか思わないわけです。しかしポケモン世界の少年少女たちはそうではありません。彼らの多く(?)は、夢と希望を抱き、胸躍る冒険へと、旅立つわけでして。ポケモンバトルは皆の当たり前であり、目標に成り得るわけですね。彼らは、オリンピック金メダルを目指すかの如く、ポケモンマスターを目指します。
夢のある世界。目標のある世界。素敵ですね。憧れます。
しかし一方で、こちらの世界にポケモンはいません。一緒に冒険するポケモンも、旅の目標であるジムも、旅を助けてくれるポケモンセンターもないわけです。悲しいですね。
いえ。よく考えてください。
本当に、こちらの世界にはポケモンは存在しないんですか?
と、いうのが、今回の議題というか、雑談の焦点です。切り口です。
ポケモン世界観のアレコレは、現実に置き換えるとどういう解釈ができるんだろう、という遊びです。「そんな設定が組み込まれているわけがない」「妄想だ」と言ってしまえばそれまでなので(特に参考文献等を提示できませんので)、そのあたり考慮したうえで。
(ここから先、ポケモンの具体的な世界観について解釈違い・事実誤認・先入観による勘違いが含まれている可能性が大いにあります。)
適当に論を進めていきましょう。
・ポケモン世界観に対する疑問
そもそも、私はポケモンの世界観に対して、とりあえずふたつ疑問がありまして。
1.「なぜ、ポケモンバトルという、殺し合いに近しい野蛮なシステムが国民的スポーツとして受け入れられているのか」
2.「なぜ、(そのような野蛮なはずの)ポケモンバトルが、公的機関から多額の資金を投じてまで援助されているのか」
です。
一つずつ見ていきましょう。
ひとつめの疑問。ポケモンバトルというのは、こちらの世界観の、少なくとも日本の倫理観に沿うと「非常に野蛮な行為」に該当するはずです。例えば、可愛がっているペットを見世物として殺し合いさせる飼い主は、まずいませんよね。闘犬や闘鳥を例に挙げているかたもいらっしゃいました。
可愛いポケモンたちを戦わせる行為。これがかなりの部分で肯定されている(もちろん作中にはポケモンの争いを嫌う人物も登場するわけですが)という事実。これがなぜ成立しているのか?という疑問です。
ポケモンは、どうやらただのペットや動物とは一線を画すような、違う見方をされている存在である、ということでしょうか...
ふむ...
一旦置いておいて。
ふたつめの疑問。これはポケモンセンターやポケモンジムのことです。トレーナーは基本的に無償でポケモンセンターを利用することが出来、ジムに関しても、参加費や運営費を納めることもありません(負けたらお金は取られますが、それはそれとして)。これを現実的に解釈するなら、「公的機関による運営」であると考えることが出来るでしょう。ポケモンバトルという要素は、公的機関から手厚く保護を受けるだけ価値ある存在である、ということになります。
ですが、ポケモンバトル自体、そこまで保護されるべきなものなのでしょうか。仮にポケモンバトルを観戦娯楽スポーツの一種、と仮置きしたとして、こちらの世界に公共資金をここまで投じるような競技はありません。サッカーにしろ、野球にしろ、現実世界でどれだけ人気なスポーツでも、という話です。なにか特別な理由や背景が、ポケモンバトルにはあるのではないか...と考えたくなります。
ふむ...
・二つ目の疑問の解消
さて、ここで特に二つ目の疑問に注目しながら、こちらの世界に視点を移しましょう。私たちの生活するこの現実世界において、あなたは「公的機関の保護下で行われる」「少年少女の活動」といって、何を思い浮かべますか...?
おそらく多くの人がまず思い浮かぶのは「教育」じゃないかと思います。学校でのお勉強ですね。現実世界では、こと教育に関してはお国からたくさんのお金が出ているように思います(体感です)
では、「なぜ、私たちの勉強を、国が支えてくれているのか」というところを考えてみます。そこから、ポケモンバトルが支援される理由を推測してみましょう。ちょっと見えてきそうですね。
さて、教育基本法第一条、にはこんな記述があります。
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これを都合よく(都合よく)かみ砕くと「社会の役に立ついい子になってね」って読み下せます。まぁ、解釈としてはそう遠からず。教育の目的は、社会の役に立ついい子を育てること。そのために、国は多額の資金を投じているわけですね。
さて、われわれの世界では、教育のように「社会の役に立ついい子」になろうとする活動は、国が惜しみなく援助してくれるらしいです。ローカルに考えると、公立学校はその筆頭ですし、自治体単位の主催する教育的野外活動、その類の活動は補助金が出ることが多いですね。大学生的に身近な例を挙げると、奨学金であるとか、国公立大学自体の運営に関してだとか、ボランティア活動の参加補助であるとか、留学補助金であるとか。多くの資金が分配されることが多いです。
とにもかくにも。その活動によって人物が将来的に「公共の利益に成り得る」よう成長する活動。ここには公的資金が惜しみなく投じられるようです。
では、ポケモンの世界に視点を戻しましょう。
先の話を踏まえると、「ポケモンバトルを行うこと」が、将来的に「公共にとって利益となり得る」要素があるのであれば、「公共団体からの多額の支援(ポケモンセンター・ポケモンジム)」が成立します。
なるほど。じゃあつぎは、「公共の利益」に焦点を当ててみましょうか。
・閑話休題(?)
突然ですが、質問です。貴方は工事現場の人事担当です。本日は最終面接の日。最終選考まで残った以下の二人の人物から、採用する人材を一人選びましょう。まずは一人目の履歴書です。
A:東京大学卒。大学ではウェイトリフティング部に所属。全国大会にまで出場するほどの筋力と、十二分な学力を保持。大学では勉学にも運動にも励み、自分の進むべき道について熟考した結果、最終的には自分の身体を活かした活動で世のため人のために働きたいと決意。この工事現場での労働を希望した。
なるほど、これはいい人材だ。これは間違いなく採用だろう。そう考えながら、次の履歴書に目を通します。その履歴書には、短く、こう書いてありました。
B:現役ポケモントレーナー。カイリキー3体所持。
・話を戻して。
さて、「ポケモンバトルを行うこと」が、将来的に「公共にとって利益となり得る」要素を探そう、という話でした。先の話で、なんとなく言いたいことは伝わった気がしますが、くどくど書いていきます。
「ポケモンバトルを行うこと」は、「ポケモン同士を戦わせること」です。これは、勝利側のポケモンのlv上昇に繋がりますし、その競争が過激化する場合、当然双方のトレーナーはより強い、よりlvの高いポケモンを育てようとします。
さて、ポケモンは経験値を得ることで、レベルが上昇し、多くの技を習得します。これはゲームという都合上、「技」という枠で縛られていますが、現実的に考えた場合、「経験値をより多く得れば得るほど、レベルを上げれば上げるほど、そのポケモンが成長・学習し、より優秀な個体となる」といえるでしょう。
ピカチュウははじめ尻尾を上手く扱えませんが、戦闘経験を積むことで尻尾の扱いを覚え、尻尾を用いた攻撃することが出来るようになる。それを便宜上「アイアンテール」という技として表現している、といった感じです。
「ポケモンバトルを行うこと」は「ポケモンの育成」に、さらに「より優秀なポケモンを増やす」ことに繋がります。
そして、ここからは妄想ですが(ここまでも妄想でしたが)、ポケモン世界では、「ポケモン能力の進化・発展」が、そのまま「人間社会の進化・発展」に繋がっているのではないかと思います。前述の「ポケモンバトル≒学習教育」の対比に沿うと、「教育による優秀な人材の育成」が人間社会の発展につながっている、という事実の写し鏡です。わかりやすい例をいくつか。
医学の面からアプローチしましょう。癒しの願いを極めたポケモンは、アロマセラピーを覚えたポケモンは、人間社会にどれだけ貢献できるでしょうか。
労働力の面からアプローチしましょう。筋肉隆々な格闘ポケモンは、サイコキネシスを扱えるエスパーポケモンは、どれだけ頼もしい労働力になるでしょうか。
その他ぱっと思いつくだけでも、発電、運送、熱利用、天候操作...
人類が行うよりはるかに効率的に、時に不可能なことまでを可能にするポケモンが、そのポケモン能力の発展が、人間社会にもたらす影響力は計り知れません(作中でもこのあたりが焦点になることも多いですね)。 ポケモンの進化は新たな技術を生み出し、ポケモンの進化は新たな商売を生み出し、ポケモンの進化は新たな生活を生み出します。
結果的には「ポケモンバトルの活性化」は、「より優秀なポケモンの増加」に繋がり、そのまま「人間社会の進化・発展」に繋がる、と言えるでしょう。そのために公的機関は多くの資金を投じ、ポケモンバトルを活性化させることに積極的なのではないでしょうか。
しかもその活動に「少年少女の成長」が関わっているとするとなおさらです。大義名分的な、という意味を含みますが。まだ人生経験の少ない少年少女にとって、旅という形式で世界に出、多くの経験を積むこと自体が、あの世界での生きるすべを見つけるいい機会になりそうですから。それこそ、教育的な面も強いのかもしれません。
以上から、我々の世界における「勉学を通し、社会の発展につながる優秀な人材を育成する教育」という行為は、「ポケモンを通し、社会の発展につながる優秀なトレーナーを育成するポケモンバトル」という行為と同列であると、言えるでしょう
そのために、公的機関から多額の援助がある。ということです。これで、二つ目の疑問は解消されました。
では、これを通して、一つ目の疑問に立ち返りましょう。
・一つ目の疑問の解消
1.「なぜ、ポケモンバトルという、殺し合いに近しい野蛮なシステムが国民的スポーツとして受け入れられているのか」
でした。少し考えてみたところ、これにはいくつか理由となりそうなものが挙げられそうです。
例えば「もともとポケモンは戦うべくして戦う生き物」である、とか。野生のポケモンは突然飛び出してきて、戦闘になりますよね。ポケモンが戦うことが生物的に、あるいは人類概念的に当然であれば、それをスポーツとして受け入れることが出来ます。少し極端ですが、サッカーという競技に対して「ボールが蹴られて可哀そうだからサッカー反対!」っていう人はいませんよね。ボールは蹴られるのが当たり前。
あとは、「トレーナーとポケモンのヒーロー像」が確立されている、とか。例えば、大きな災害や他国との戦争といった災禍を振り払うためには、ポケモンの強い力に頼ることが一般的であって。より強いトレーナー及びより強いポケモンは、私たちを守ってくれるヒーローなのだ、という考え。それらは強ければ強いほど格好よく、素晴らしい。この考え方が常識として深く浸透し、ポケモン同士が傷つけあう嫌悪感に勝っていれば、ポケモンバトルは「ヒーローが強くなるための手段」あるいは「より強いヒーローを選定する場」です。広く受け入れられることでしょう。
ですがこれらは結局、明確な理由を挙げられない妄想の域を出ません。ので、先ほどまで考察していた「ポケモンバトルの人間社会発展に対する寄与」という視点から見てみましょう。現実に即した視点であれば、ある程度説得力がある気がしますね。気がするような気がします。気がするだけです。
例えば、我々は現在、石油を消費して様々な製品を作ります。しかしそれは地中に眠っていた二酸化炭素を待機中に放出する行為であり、地球温暖化の促進につながります(諸説ありますが)。石油の消費に反対する声もありますが、基本的にはそれは問題とされず、経済を回しています。
石油の消費は「感情論的・一面的には悪」であるが、「実際は受け入れられ活用」されています。これは、「石油の人間社会発展に対する寄与」が理由でしょう。(もっといい例えがありそうですが、思いつきませんでした。うーん。)
ポケモンバトルも同様に考えます。
ポケモンバトルは「可愛らしいポケモンたちを争わせる、感情的には悪」ですが、「ポケモンの成長による人間社会発展に対する寄与」が理由となって受け入れられている、とか。当然そこに「トレーナーとポケモンの友情」とか、「バトルそのもののエンターテイメント性」とかいう要素が加わってくるのでなおさらですね。
・新たな疑問の発生
ここまでの話のまとめ。
「ポケモン世界におけるポケモンバトルの立ち位置は、我々の世界における教育的存在である。少年少女の健全な成長を促進し、かつその経験が将来の活動に生き、ひいては人間社会の発展につながるため、公的機関からも惜しみなく補助がある。そのような健全なポケモンバトルは、広く皆に受け入れられている。」
ポケモンバトルは、我々の世界の教育的立場に割り当てられるのではないか?
という話でした。という話のつもりでした。伝わってますかね?
ここで、もう一つの疑問が出てきます。
3.なぜ、「旅」という形式をとるのか?
です。
我々の世界で、教育は学校という機関で、一律的に行われます。しかしポケモンの世界はそうではありません。少年少女は「旅」に出るのです。前述の通り、教育的内容を含み、かつその活動が将来の仕事に繋がったりだとか、社会の発展につながる、というのであれば、学校という施設で一律的に効率的にポケモントレーナー育成を行うほうが効率が良さそうなものです。少なくとも日本では、この方式が取られています。
しかしポケモン世界線はそうではない。一応「トレーナーズスクール」というものは存在していますが...。
ということで。軽く調べたところ、ここには一応公式設定らしきものがありました。「ポケモン世界は10才で成人」「それまでは義務教育として小学校に通う(おそらく、トレーナーズスクール)」「その後は旅に出るも、中学に進学するも、就職するも自由」とのこと。(あまり信頼のおけるソースとは言えません。ポケモンアニメの脚本家さんが執筆した小説「小説版 ポケットモンスター the animation」の設定、とのことです。ネット情報)
最低限の知識は学校で学ぶようですが、その後は旅という形式でほぼ放任。これはどうも前述の「公的機関からも惜しみなく補助がある」という部分と食い違うような気がしてなりません。この疑問点について考察します。
と、言っても考察らしい考察はなく。少し考えたら思い当たる節が。これは単純に、「ポケモンバトル」という要素を「学校」という限られた範囲で学ぶことに物理的限界があるため、だと考えられます。
まず、学校という一施設で、対戦を学ぶために何百種類というポケモンを学校で飼う(飼う?)ことは不可能でしょう。それよりは、各地に生息している地域に赴き、フィールドワークを行うほうが効率的で、現実的です。
また、仮に模擬戦闘用のポケモンを学校で用意しても、代を追うごとに模擬戦闘用ポケモンはLvが上がり、そのうち新一年生はLv50とかのコラッタと戦わされることになります。毎年新しくポケモンを用意しなくてはなりません。あまり現実的ではなさそうです。
こんな感じで。どうでしょう。
・まとめ
と、いう訳で。以上が考察になります。
さらっとまとめると、
「ポケモン世界におけるポケモンバトルの立ち位置は、我々の世界における学習教育的存在である。少年少女の健全な成長を促進し、かつその経験が将来の活動に生き、ひいては人間社会の発展につながるため、公的機関からも惜しみなく補助がある。そのような健全なポケモンバトルは、広く皆に受け入れられている。」
「また、「ポケモンバトル」という要素を「学校」という限られた範囲で学ぶことに物理的限界があるため、トレーナーは旅という形式で修練を積む。」
という感じの結論でした。
なんかあれですね。履歴書に「チャンピオンリーグ優勝経験あり」なんて書いてあったら即採用!とか。そんな雰囲気ですね。
ポケモンマスターへの道は、同時に就活である!とか。言えそうです。
はい。
ここまで長々とお疲れさまでした。いや、本当に。長いですね。あんまり遊び心もないし。もっと簡潔にまとめたかったんですが、まぁたまにはこういうのもいいかな、ということで。
楽しかったです。久しぶりにこんなに長く文章打ち込んだ気もしますね。
お疲れさまでした。ざんくらでした (/・ω・)/
△全然関係ないですけど、上野さんは不器用! 、上野さん可愛すぎてやばい。まだ観てない人は観よう。